白の体は、人間のそれで言うと女性のものにあたる。つまりは男性とでなければ、子を作り子孫を残すことは出来ない。
人は近頃、子供を産むことを躊躇っているようである。
しかしそれは、正に馬鹿馬鹿しいことではないだろうか。考えてみれば、自分は自分さえよければあとのことはどうなってもいいですよー、私は自己中心的な人間ですよ、と言っているようなものだ。
雄と雌とが交わり子を生すということは至極簡単であり重要なことのはずなのに、なぜそれを躊躇うのだろう。
富? 世間体? 時間? 精神? 体力? 場所?
どれも理由としては嘲笑えるほどに下らない。
私はこんなに、子を欲しがっているのに。
「ねぇ黒ちゃん。赤ちゃんって見たことあるかしら?」
二人分の足音が響かないまま、真白な虚空へと溶けていく。
「何言ってるの? 赤ちゃんならいっぱい見てる…」
黒の右脳が、真赤なワンピースを纏い、真赤な髪を長く伸ばした、血染めの瞳の少女を描く。彼女の右目から常に流れ落ちる鮮血は、この世のどんな赫よりも鮮やかで、美しい。
白もまた赤を思い出す。自分よりも頭一つ分ほど背の高い彼女のことを、白はあまり好いてはいなかった。大体、彼女はいつも死臭と腐敗臭と血の匂いで生臭くて、近寄らないでほしい。
「彼女ではないわ。赤子よ。お母さんのお腹から出てくる、子供のこと」
足は進み続けている。ふと下を見れば、まるで空を歩いているかのような感覚を覚えるほど、高い位置まで来ていた。
黒が、ああと思いついたように相槌を打った。
「赤ちゃんかー。見たことないかな?」
「ないわよねぇ」
それもそうだ。あるはずがない。
今までちょくちょく本を読んできたが、出産等の描写はあまり見たことがない。その所為で知識が少なく、出産がどんなものなのか想像がつかなかった。
ただ、赤子は血まみれで出てくるのだというのは知っている。そして、生まれた直後に声を出して泣かなければいけないそうだ。
何故泣くのだろう。血まみれで気持ち悪いから?
「見てみたいわね」
違う。
こんな汚い世界に生まれてしまって、きっと悲しいんだろう。 
「そうかなぁ」
黒は興味なさそうに呟く。
意外だった。きっと喜んで同意してくると思ったのだが。
「黒ちゃんは子供嫌いだったかしら?」
「よくわかんない」
声に表情は無い。
久しぶりに見るつまらなさそうな黒に、白は少しだけ目を惹かれていた。
沈黙。無理に話を続けることもないので、また虚空を見る。変わり映えもせずに、距離も掴めない真白な空間が続いていた。虹はやはり架かっていない。
足下の鍵盤から、冷たい大理石のような温度が伝わる。しかし白の体温はそれより低いので、実際はよく分からない。
そういえば、白は――私は女の体をしているが、卵を持っている自覚がない。自覚もなく子を産める体というのも、少し滑稽かもしれない。本能的だとも思う。ただ、理想の相手が雄の体でないことが残念だ。
目の前を往く、真黒な少女。彼女の子が欲しい。
けれど、それは無理な願いだった。
どうして私かこの子のどちらかが、雄でないんだろう。
「かーごめかごめ かーごのなーかのとーりーは」
唐突に響かない歌声。歌声は虚空を彷徨い、やがて消えた。
続きを歌っている黒を見ると、なんだか少しだけ切ない気がした。
「何? その歌」
白の問いに、歩みを止めずに黒が振り向く。
その瞳は、今までに見たこともない表情だった。不機嫌一色。その表情が少し赤と重なって、白もつまらなさそうに口を瞑る。
黒はお腹を押さえて、嘲笑うように言い放ってみせた。
「知らない? 流産の歌」
「ええ。知らなかったわ」
白が言うと、黒は一瞬口元を緩ませて、また前へ向き直った。
「怖い歌を歌うわね?」
何が怖いんだか。
言った後に自分に突っ込む。
「白ちゃんはさ、子供欲しいの?」
まるで心を読まれたようで、白の鼓動が少し速くなる。
隣に黒が居て、私が赤子を抱いて、三人で笑っている。そんな映像が右脳に描かれていた。
欲は必ずしも叶うものではない。叶わぬ願いの方がより多く、より叶えたいものである。欲しいものほど手に入らず、したいことほど出来ない。皮肉なものだ。
子が宿りお腹の膨れた自分を想像しつつ、白は自嘲めいた声で言う。
「そうね。欲しいかもね」
一瞬間が空いて、黒が言う。
「ふぅん。だれの子供がほしいの?」
「貴女よ」
少し頬を赤らめながら、しかし足は止めないまま。
黒は一瞬だけ振り向いて、赤らめた頬と退屈そうな目で白を見た。
照れているのか腹を立てたのか、すぐについと前へ向き直り、階段を上がっていく。今どの辺りを上がっているのだろう。
「駄目かしら?」
黒は答えない。
「馬鹿なことを言っているのは解っているわ。私と貴女では子は作れないもの」
言って白は、心の何処かにぽっかりと穴が空いたような感覚を覚えた。今日はなんだか、言って後悔することが多い気がする。先に考えたことだ。言いたいことほど、言ったら可笑しいことだったりするんだろう。
「それでも貴女の子は欲しいのよ。そう願うのは悪いことかしら」
「悪くはないけど」
黒の足が止まる。
体ごと振り向いた黒が、やけに大きく見えた。
「理解は出来ない」
大きな瞳が、その表情には不釣り合いだった。
「わたしは子供なんて、要らないと思うから」
子供をあやすような微笑みで、黒は白に問を掛ける。
つまり、お前は何故子供を欲しがるのかと言うこと。もしかすればもっと深いのかもしれないが、今の白はそう推測をつけるので精一杯だった。
その微笑みが痛くて、白は虚空へと視線を逃がす。
「私は貴女無しでは生きられない。貴女もそう」
こんなに言葉を発するのが辛いと思ったのは、久しぶりだ。
「そんな関係で、憎しみ合って嫌い合って生きるのなんてごめんよ。それにそうでなくても、私は貴女を愛しているの」
相手は微笑んでいるのに、自分だけ真剣な顔をして。
馬鹿みたいだ。
「貴女の子が欲しい」
零すように言うと、黒は白に背を向けて、また階段を上がり始めた。
自分でも何を言ってるんだろうとは思っている。言葉が先行して、まとまっていない。これでは碌な会話も出来ないのは当然だ。
落ち着かない。黒がいつもと違う素振りを見せるからだろうか。そもそも何故今日の黒はこんなに、いつもと違うんだろう。
沈黙が続いたまま、螺旋階段を上がっていく二人。
何処まで上がっても、ずっと同じ景色が続いている。
白が、黒い段に足を掛ける。と同時に、黒のあどけない声が沈黙を破った。
「わたしはね、子供なんて要らないと思う」
「さっき聞いたわ」
今も自分の腹を気にしている自分が、やけに恥ずかしい。
「特に白ちゃんの子ならなおさら」
その台詞に、白は目を細める。
直ぐに脳細胞が馬鹿みたいに宴会を始めて、ありとあらゆる可能性を考える。
しかしその殆どは白には届かず、また言葉が先行していた。
「どうして? 私はこんなに欲しいのに」
縋るようにして問い詰める白に、黒は自嘲するような笑みを見せた。
「だってね」
言葉が虚空に溶けて、黒の細い腕は白の首へと伸びていた。
唐突に黒の指が、白の喉を絞め殺そうとする。息苦しさと苦痛に、白は歯を折れそうなほど強く噛みしめる。体が熱を持って、苦しさに涙腺が緩む。
自嘲と軽蔑の二つの表情を見せる黒。
ふと急に黒の手が離れた。白は膝をついて喉を押さえ、激しく咳き込む。急速に酸素を取り戻した肺が騒ぎ立て、喉の鈍い痛みが神経細胞を突き抜ける。
白が苦しそうに跪いているのを、黒は哀れむように見ていた。そうして、未だ落ち着いた呼吸を取り戻せない白の頭上へ、小さく言葉を吐く。
「子供は要らない。こんなふうに、きっと殺してしまうから」
振り向いて黒は、次の段へ足を掛けた。




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