―恥じることでも、悲しむことでもない。









暑い日が続く。
古くかたかたと音が鳴っている扇風機が首を振る。七十度位振って、また折り返す。そんな能天気な扇風機を見て、白はやっぱり暑そうに肩を落とした。扇風機が自分を向いていない間、この猛暑(あくまで体感温度だが)に身を晒すことになる。しかし、自分が風に当たっていない間は、他の誰かが涼しんでいるのだ。
自己犠牲になる気は更々ないし、まして他人を危惧出来るほど自分は優しくはない。しかし今は部屋には自分と黒しか居ない訳で。
大好きな彼女を危惧するくらいの優しさは、あると思いたい。
小さなテーブル。それにぴったり合う椅子に腰かけて、黒は暑さか何かで唸っていた。暑さか何か、というのは今の黒がテーブルに向って真剣に何かをしているからである。
白は背を預けていた木造の壁から離れ、扇風機のもとへと歩く。触ったら壊れてしまいそうで少し躊躇ったが、すぐに手を伸ばした。扇風機の首振りを止めさせ、未だ唸る黒の背中へと向ける。
もちろん白は他人を危惧出来る人間ではない。自分も黒の所へ行くから、黒に扇風機を向けたまでである。
誰も居ない場所に向いている扇風機ほど無意味なものも余りない。
「貴方は熱くないのかしら…」
扇風機にそう呟いて白は、その首筋にそっと触れた。踵を返し、小さな椅子に腰かけて唸る小さな黒のもとへ行く。
扇風機も少女に恋をするのだろうか。
それはまた、別の機会に。


テーブルの上を見てみると、端の少し赤く汚れた真白な紙があるだけだった。
肩の上で雑に切り揃えられた髪、大きく丸い瞳、纏うワンピース。そのどれもが真黒で、肌だけが取り残されたように白い。その細い指先には、ペンが握られていた。
もうかれこれ黒は一時間は唸っている。これだけの条件でそんな長時間悩めるものなのか、白にはよく理解出来なかった。暑さの所為か、考える気力も湧かない。
小さい正方形の紙。ペン。
ということは何かを書きたいのだろうが、一体何を書くつもりで、何を悩んでいるのだろう。
肩甲骨のあたりまで伸びた粉雪の様な髪を指で梳きながら、白は黒の顔を覗き込んだ。
「何を書きたいのかしら?」
「ありゃ、黒ちゃん」
相当集中していたのだろう。どうやら黒は、白が居たことに気付いていなかったようだ。
白は少しむっと口を尖らせて、しかしすぐに微笑んでみせる。そうして、紙の端っこの方にその真白な指を添える。真白な紙に真白な指。輪郭を描かなければ見えないほどだった。
黒はペンを置いて、白の顔を見上げる。
「うーん…お手紙を書きたいんだけど、その……」
続きを躊躇うように目を背ける黒。
甘く噛み合った仲なのに、何を隠しているのだろう。
「なぁに?」
白はテーブルに肘をついて、手に顔を乗せる。誘うように目を細めると、黒は恥ずかしそうに頬を染めた。
「教えて。何を悩んでいるの?」
「じつはね…? あの、笑わないでね?」
「笑わないわ。面白かったら笑うけど」
白の笑顔に負けたのか、黒はペンを持って、文字を書く様な仕草をした。
あくまで、ただの仕草である。
「私ね、字のかきかたがわからないの」
「あら…そうなの」
とりあえず白は驚いたが、笑いはしなかった。それを見て、黒は少し瞳を潤ませてほっと息吐く。
白が驚いたのは、大分前に黒から手紙を貰ったことがあるような気がしたからだ。それに黒は少し難しいものも含め、読みには一切不自由していない。
同じ時に生まれて同じ時間と場所を過ごしてきたのに、自分は完璧に出来る書きが黒には出来ない、というのは何故だろうか?
気にはなるが、今の黒は瞳を潤ませる程である。きっと、文字の書きが出来ない事が恥ずかしいと思っているのだろう。だから、やっぱり気にはなるがしかし白は口を瞑っておいた。
話題を変えよう。
「ところで、誰に手紙を送るつもりなのかしら。まさか赤や青じゃないでしょうね?」
「ちがうよー。だって赤ちゃんたちには昨日あったもん」
「え?」
白は慌てて昨日の記憶を漁る。
何も覚えていない。絶対に、黒と一緒には居たはずだ。しかし、赤や青と最近会った記憶は全く無い。
随分前に会ったことは覚えているのだが。
白は赤を余り好いていない。常識を知らないし、いつも血生臭いし、何より彼女の傷や痛みが自分たちの体と繋がる、というのが一番気味が悪い。
青はそんな赤のことを好いているようだったが、そこは得体が知れない。礼儀正しく落ち着いていて、穏やかな性格の持ち主なのだが。
兎に角、白としては気に入らなかった。自分が知らない間に黒が赤や青と会っていたなんて。
「緑ちゃんもいればよかったのになぁ」
緑。いつもおっとりしてして絶対に怒らない、気味の悪い人。
別に嫌いではないし、親切な彼女には感謝すべきことも多々ある。ただ、彼女はあんまり見かけない。
青や赤と一緒に居ることも余りないし、自分たちとも余り頻繁には会わない。普段はどんなところで何をしているのだろうか。
「いや、そんなことはどうでもいいわ」
「?」
「じゃあもしかして緑に送るのかしら?」
「ちがうよー」
「じゃあ誰に…」
白は自分の記憶上にある人物を片っ端から思いだしていく。
赤、青、緑。他にも数名。
どれに出すのだろうか?
白が考える間も無く、黒は満面の笑みで言う。
「えっとね、白ちゃんにお手紙出すの」

「…は?」
「白ちゃんにお手紙書いてあげるの」
白の気が一気に抜ける。気だけに。
「でも、私と貴女はいつも一緒じゃない」
「お手紙って一緒に居る人にはあげちゃいけないの?」
「う? う〜ん…悪いことはないけれど」
白は腕を組んで唸る。確かにそう言われると、別に悪いことはない。
黒はまたペンを握り、紙に向いて俯いた。
「でも字がかけなくて……」
「そうだったの…」
白は俯いた黒の頭を優しく撫でる。そうして、力なくペンを握る黒の手に自分の手を重ねる。黒が、少し寂しそうな表情で白を見上げる。
「大丈夫。私が教えてあげるわ」
「ほんとう?」
「ええ」
にっこりと微笑んだ白を見て、黒は寂しげな表情を影も残さずに満面の笑みへと変えた。
ペンを握る手に力が入る。
「ねぇ早くおしえてっ」
「せかさないの。まず五十音を書きましょう」
嬉々としてペンを動かそうとする黒を抑え、白が優しく文字の書き方を教えていく。
呑み込みが早いのか忘れていただけなのか、白の予想以上に黒は上手に文字を書いていた。
「な ってどうやって書くの」
「な はね、こう。ちょっと難しいかしら?」
「変なかたち…でも書けるよ!」
ゆっくりと少しずつペンを進ませ、なが出来あがっていく。
「あら。上手ね」
「早くつぎーつぎー!」
「せっかちねぇ」
手紙が出来あがるのは、数十分後の話。
手紙には、紙の真白と文字の真黒の二つ。



黒がペンを置いた。紙を掲げて、誇らしげに笑みを見せる。
間違いがないことを確認して、黒は紙を丁寧に折り畳む。
「出来たっ」
呑み込みが早い。五十音の書き方を教えて数十分しか経っていないのに、もうある程度普通に書けるようになった。
「上手に書けたわね」
「はい、どうぞ」
丁寧に折り畳んだ手紙を両手で持ち、白の前へと差し出す。
白は一度にっこりと微笑んで、それを受け取る。
「あらありがとう」
「えへへ」
嬉しそうに笑う黒。その指先は、少しばかりインクで汚れていた。
二人の髪を扇風機の風が揺らす。手紙のよれた端がぴらぴらと揺れる。手紙も暑かっただろうに。
「でもまあ…教えている間書いてるところを見ていたんだから、内容は解っているのだけれど」
「?」
「何でもないわ」
小さく呟いた白に黒は少し恥ずかしそうに、しかし笑みを崩さないまま、
「読んでねっ」
と白に背を向けて椅子に座った。
頬に手を当てて、嬉しそうに身体を揺らしている。
「…ええ」
白は手紙を見つめる。内容は解っている。
――しろちゃんのことがだいすきです。ずっといっしょにいようね。
だけど何故かたったそれだけの言葉が、白には恥ずかしくて読めなかった。
適当に紙を曲げたりして音を立て開いて読んだように思わせて、白は手紙をそっと手の中に仕舞った。
何時か返事を書こうかな。
そんな、ちょっと新鮮なことを考えながら。


誰も来ないポストに、愛してるの手紙を入れた。