―起きたときに、ちゃんと世界があるといいな。











ノートを閉じると、やけに淋しい感じがした。
私は何時も通りに日記をつけて、でもまあ下らない内容なのだけれど。
転がったシャーペンを見やる。音も無い部屋。古くなった蛍光灯が時々、点滅する。
机の上には乱雑に教科書が積んである。あとは何もない。私は何となく嫌になって、教科書の山を押して崩した。拾うのが面倒臭いとは、その時には思わなかった。
ノートには、日記をつけたのだ。
今日もつまらない一日だった。つまらないの定義が解らないけど、少なくとも私の価値観から言えばつまらない、下らない一日。それがもうずっと、十六…いや十七年も続いている。そう考えると妙に何か凄い事を達成したような感じがするけれど、実際は無駄に二酸化炭素やゴミクズを増やしてきただけだ。凄い事なんて何一つ無い。寧ろ私が生きていた所為で狂ってしまった事は吐いて捨てるほどあるだろう。
幸せを感じた事が無い訳じゃない。別に不自由している訳でもない。五体満足だし、友達も人並みとまではいかなくても普通に居る。
だけど何故か、私は私の事が好きになれない。私は生きていても価値の無い人間なんだと、それが絶対に否定出来ない。寧ろ何処か、喜んで肯定している部分がある。
私は嫌な人間だから、素敵なものを見ると先ず、ああ自分は駄目な人間だなと思う。世の中には頑張って何かを達成したり、創ったり、説いたりする人が居るのに、私は中途半端にそれらを見て真似しているだけ。
別に歴史に名を残したいとか、売れて有名になりたいとかそんなのじゃない。だけど、何かしら自分が存在を認められて、世界の何処誰から如何見ても安心して確立出来る足場が欲しい。
私はノートを机の上に置き去りにしてベッドに身を投げた。冬用に替えた厚地の布団が身体を受け入れる。
元々力なんて入れる積りは無い。たったそれだけの力を出して、私は手を蛍光灯へと伸ばした。
掴める訳が無いし、掴んでも熱くて痛いだけだ。
「………」
袖が重力の法則に従って下にずれる。
自分の目にも生々しい傷跡が、割と結構見えた。
私は自虐する。自傷する。理由は簡単、自分の価値が見出せないから。
勿論、カッターを持つ手は震える。正直に言って怖い。痛いのは嫌い。声も震える。息が荒くなって、呼吸行動が難しくなる。肩が普段の何倍も上下する。視点が定まらない。動悸がする。無意識に身体が揺れる。
切ってもいないのに痛みだす。泣きそうになる。

――切る。


「―――っ……」
だけど自傷して自分の価値が見えた事は一度も無い。でもこの行為は無駄じゃない。
この世界には凄い人が沢山居る。何かを創って、何かを成し遂げて、何かを説いて。そんな人が沢山居る。
でも私みたいな、生きていてもただの「個数」にしかならない命もある。よく死んで良い命なんて無いって綺麗事を言うけど、あれは嘘だ。死んで良い命も何も、元々生きるのも死ぬのもどうでもいい命なんだ。
ただ私という自我があって、感情があって、人間が居る。それだけの事であって、「私」である必要は何処にも見つからない。
私は「私」としての存在価値が。生命の価値が欲しいのに、それがどうしても見つからない。
自分の価値が見出せない。ある筈なんだ。偶像でも綺麗事でもいい。「私」の価値が欲しかった。
でも、肉体を切っても溢れ出るのは赤い血ばかりだ。
手が震える。血が腕を伝う。生温かい。
たまに蛍光灯が点滅する音が聞こえるだけで、部屋に音は無い。蛍光灯のお陰で割と明るい。
仰向け逆光。影が出来ていても、その赤い色は見えた。
「死んじゃえば…いいのに……」
誰にともなくそう言って、私は血濡れたままの腕で布団にしがみついた。
痛い。傷が痛い。
私はカッターを投げ捨てた。机に当たって跳ねて、床に落ちる。
腕が大袈裟に震える。
ようやく落ち着いてきた息を整えながら、汗ばんだ手の甲を額にくっつけた。布団を離してまた仰向けになる。見れば、布団に血が染みて所々に濃く赤い血痕が付いていた。鼓動が伝わるたびに傷口から血が出てくる。そのたびに痛む腕をつねりながら、私は目を瞑った。
眠い。


悪い夢に魘されたのか、いつの間にか寝ていた私は目を開けた。
腋や背中、首筋が冷たい。寝巻が皮膚にくっついて不快感がある。私は直ぐにそれから逃れようとして起き上がって、寝巻を脱ぎ捨てる。机の上の時計を見れば丑三つ時だった。何処かの木に藁人形を打ちつけて、誰かが誰かを呪い殺そうとする時間だ。腕にまた痛みが走る。
寝ている間に布団で擦れた血が、伸びて固まっている。
「……」
痛いとは感じなかった。
寧ろこれが当たり前だと思った。
私は露わになっている上半身を隠しもせずに、また横向きに寝転がった。急に起き上がって動いた所為か、頭痛がする。寝違えたのか肩も痛い。新しい着替えを持ってくるのも面倒臭くなって、布団を引っ張り上げて頭にまで被せる。
目を瞑って考えてみても、やっぱり自分の価値は解らなかった。
この世には「役に立つ」「価値のある」そんな人は沢山居る。そして要る。
価値の無い人間も間違い無く多く居る。でもそれらは要らない命。
その要らない中に自分が居て、要る中に皆が居る。自分にはそんな実力も努力出来る才能も無いのに、その「要る」中に行きたいと思っている。よく綺麗事で「死んで良い命なんて一つも無い」みたいな事を言うけど、実際はそうでもないんだよね。寧ろ死んだ方がいい命だったりする。生きていてもゴミを増やして二酸化炭素を吐いて周りに迷惑を掛ける。
論理的に見て私に何の価値がある?
あるとすればそれはこの身体だけだ。モデルや女優の人みたいにスタイルが特別良い訳でもないし、俗に可愛いと言われるレベルの顔ではないと思う。でも、露出した乳房を意識して撫でれば、それはそれで多少快感があるのだ。この身体だけは性欲処理にでも、飴玉の代わりにでも使えそうだと思う。
私は何の性癖か、まだ少し生々しい自傷の痕を撫でるように舐めた。
「……ん」
生きている、と実感する方法は二つある。
一つは生命の大原則である子孫を残す行動、つまり性行為。もう一つが、自傷行為。
傷を与えれば痛いと思う。血が出る。動悸がする。……生きていると自覚する。
私はそのどちらもをしている。たかが知れる女子高校生ごときが大袈裟で馬鹿馬鹿しいだろうけど、私は私で私なりに苦しいのだ。理解を求める積りは無いし、理解してもらおうとも思わない。
濡れるものは濡れるのに、なぁ。
「ぁあ…っ」
何時か見た成人向け漫画の真似でもしてみようか。
私はこれに価値を見出せばいいのかも知れない。一生誰かに尽くして遊ばれて食われて、それでもそれはそれなのだろうか。
どうせ価値の無い命なら、どうせ価値の無い人生を過ごすのだろう。
死ぬ事と価値を失う事は同義に等しい。死んで価値を出した者も居るのだから、価値の無い方がやっぱり価値なんて無いのだと思う。私は死ぬよりどうでもいい価値の人間なのだ。つまり、私はもう死んでいるようなもの。生きている意味を、価値を失っている。
だからだろうか、こんな事をしているのは。生きているんだと実感出来る。
快楽がある、痛みがある。……生きている。
価値は無いが、一応まだ存在はしているんだ。でもじきに、存在する価値すら無くなってしまうんだろう。
…それからは考えるのを止めた。
今は唯、価値の無い生命を実感したいだけの指先を動かすのに必死だった。身体を揺らすのに懸命だった。
生々しい香りと汗の臭い。それと自傷の痛みに酔い痴れて、私は布団の中で莫迦になる。
もう何も考えたくない。何も見たくない。
そう割り切って、私は指先を迎えた。


次の日私は、死んだ魚の目で家を出た。
鬱陶しい光に、核爆弾級の羨望と嫉妬を抱きながら。