03霧雨 「屋上雨中のさぁさぁ雑談」

―冷たいよ。冷たいよ。









さぁぁ、と雨が降る。
これを霧雨と言うのだろうか、その雨粒は細かくて霧のようだった。空は翳り光が届かず、夕刻である今周りは夜程に暗い。街灯も雨の所為で対して役に立たない。
鳥など飛んでいる筈も無かった。でもそれでいいのかも知れない。雨が降っているからと合理的な理由をつけて、飛ぶのを止めて休むことが出来るから。
少女の黒髪が、水滴の表面張力でまとまっている。滴る粒が額を頬を顎を伝い落ちる。傘も差さないまま立ち尽くす少女の体とブラウスを、霧のような雨が容赦なく濡らし、冷やす。体温が急速に低下。肌や唇が青ざめていき、寒さに体が震える。意識とは別に鳥肌が立ち、その上を大粒の水滴が伝う。
長い睫毛を携えた黒に近い瞳で、少女が見下ろすのは街。


どうにも雨が止む気配はない。
なんて能天気なことを考えていていいのか。自分でも今の自分がよく解らなかった。
傘は家に忘れたんだ。どうせ当たらない天気予報なんて見たくもないし、今朝は晴れていた。傘は必要ないだろうと高をくくった結果がこれだ。
でも、傘を忘れたんなら、携帯で家族に連絡して傘を持ってきてもらうとか、少なくとも教室で待てばいい。それを今私は、気づいたら無防備に雨の下へと出ていた。
夕方六時辺り、放課後、屋上。
雨は止むどころかどんどん激しさを増し、しかしその粒は霧のように細かくて綺麗だった。降雨の音も、そこはかとなく優しく感じる。
夏服以降期間を終了し、生徒はもう全員が夏期使用の薄い生地のブラウスを着用することになっている。
義務になってなくてもみんな夏服を着るだろうけど。
全身がびしょ濡れで、腕を大粒の水滴が絶えず伝う。前髪から顔へ垂れる雫が鬱陶しい。靴下が濡れて水気を増し、気持ち悪い。体に張り付いたブラウスが透けて、肌と下着が見える。
露出して隠しもしない手首には、生々しい傷跡があった。
「……」
何か言葉が出そうだったが出ない。
優柔不断な口め。言いたいことがあるんならはっきり言いなさいね。
目を閉じて顔を上げる。冷たい雨が、頬を打ちつける。
明日風邪を引くだろうか。これだけ濡れてれば、これからの行動によっては風邪を引ける筈。体温が低下しているのが手に取るように解った。
「…気持ちいいな」
そう、くすりと笑う。

唐突に、少女の周りのごく狭範囲の雨が止んだ。
目を開けると傘が見えた。振り向くと、少年が見えた。
「…何やってんだよ」
「雨浴」
真顔で言い放ち傘の下から出ようとする少女を、少年が慌てて追う。
自分の肩だの背中だのが濡れるのも気にせず、少年は少女の真上に傘が来るように腕を伸ばしていた。しかし少女がそれを押し返す。傘が動き、霧雨が少女の体へと降り注ぐ。
雨に濡れた途端に表情が和らいだ少女を見て、少年は自分がやろうとしていることがお節介だと言うことを悟った。自分が濡れないように傘を差す。
「風邪引くぞ」
ハンカチを差し出す少年の手を無視し、少女は有刺鉄線付きの鉄格子のフェンスに背を預けた。
向き合うかたちになる。少女の透けた胸元が見え、少年は慌てて視線を逸らした。もちろん体は正直で、少女に気付かれないようちらちらと横目にそのエルドラドを見ている。
「…何しに来たのよ」
少女が不信の目を携えて言った。
少年は少し唸ったあと、言い訳をするような口調で言う。
「なんとなく気になったんだよ」
「ふーん」
適当に返しておく。
「じゃあ何でまだ学校にいるのよ」
雨がさぁさぁと降り、空を濡らす。
少女の問うた声は雨音に消えゆいた。
少年は答えを探すようにまたひとつ唸って、苦し紛れの言い訳を吐く。
「な、何となくだよ。めんどくせーから宿題先にやろうと思ってさ」
明らかに動揺と焦燥のある声。少女に気付けない訳もなく、しかし少女は敢えて反応せず疑り深い目で少年を見る。
男に似合わない傘を回すと言う仕草で誤魔化そうとしているが、バレバレだ。
やがて沈黙が訪れて、霧雨もより強くなる。
少女のブラウスを透かせて、雨水が濡らしていく。


「あんたさぁ」
見上げた視線の先に、有刺鉄線が見える。
ふざけてフェンスを登る馬鹿や未来を悲観した自殺志願者が下へと落ちてしまわないように、フェンスの上に付いているそれ。
でも正直あんまり意味がないと思う。馬鹿は馬鹿のままだし、どうせ馬鹿ならとっとと死んだ方がいいと思う。生きていても先行き不安だしで前途多難だし、周りの人間にも迷惑がかかる、そんな奴らを生かしておいて何になると言うのだろう。死にたくなければフェンスを登らなければいいのだから。
自殺志願者に対しても、放っておいてあげていいと思う。死にたいから登っているんだし。それにどうせ死ぬんだから、ちょっと痛いくらいどうでもいいだろう。簡単に乗り越えて真っ逆さまでこの世にサヨナラだ。
そんなことを考えている間にも、雨は降り続けている。ブラウスは既に水を吸収出来なくなり、雨水は溢れ出して少女の露出した腕の肌を伝う。初めは顔に雨水が伝うのが鬱陶しかったが、もう慣れた。
先ほど脱いだローファーと靴下が、少女の足もとに転がっている。靴下は既に雑巾のようにぐしょぐしょに濡れていた。
裸足の裏から伝わる、校舎の屋上を構成するコンクリートの温度。雨で温度が冷え、ひんやりとした温度が心地いい。
目の前がぼーっとする。金網の向こうに広がる街並みが、灰色の絵具を滲ませた画用紙のように見えた。
体が冷えて。もう何分雨曝しだろうか?
「あんたさー…」
顔に手を当てて、半ば支えるように力を入れる。そう言えばなんだか足もとがふらついて、立っているだけなのに直立を意識している。
ぼーっとする。
振り向くと、黙ったまま少女が続けるのを待っている少年が居た。
少女の透けたブラウスから下着が見えて、慌てて眼を逸らした。
「……」
少し可笑しくなって、口元を緩ませる少女。それでも、今自分が何を考えているのかすらよく解らない。
雨の所為だろうか。
口が無意識に震えているような気もする。歯がかちかちと連続的に擦れ合う音が、雨音に紛れて少しだけ聞こえた。
「あんたさぁ…」
続く言葉が、出てこない。
「あ…」
上を見上げようとした瞬間、ふと世界が歪んだ。

右肩に痛感。倒れたんだということを、少女は朧気に理解した。
何か叫び声と足音がして、少女の体が再び揺れる。少年の膝の上に抱き抱えられて、少女はふっと薄くも意識を安定させる。
虚ろな目で見ると、切迫した表情の少年が見えた。
「おい大丈夫か!? しっかりしろ!! おい!!」
返事がないのを見て、少年の焦りがひどくなる。
少女がゆっくりと手を上げて、それを見た少年は一先ず落ち着いた。ゆっくりと上がった少女の指先が、少年の頬を優しく撫でる。
空気に合わず、顔を真っ赤にする少年。
「間抜け面」
そう小さく少女が呟くと、少年は表情を一変させた。耳まで赤く染めたままで。
そんな体力もないのに、荒くなりつつある息で可笑しそうに笑む。
さて、空気読まない方向で行こうか。
「あんたさ…私のこと、好きなんでしょ?」
「え!? あ、それは…」
バレバレの癖に困惑する少年。
言い訳でも考えているのか?
「ね、あっためてよ。寒いの。冷たいの。だからあっためて」
意味不明で状況に合理しない台詞に、少年はさらに困惑する。そして次の瞬間、噴き出すことになる。
少女が、震える手でブラウスのボタンを上から外し始めた。
「寒いの嫌なの…」
露わになった少女の胸元と腹部を見ないように、少年は出来る限り首を回して視線を逸らした。
そんな少年とは反対に、少女の表情は暗くなっていく。
今なら泣いたって、雨水と見分けがつかない。
「ねぇ なんで視線逸らすの」
「何でってお前…」
「こっち見てよ。私のこと好きなんでしょ…っ」
何故か溢れ出す涙。
苦し紛れだ。どうせシチュエーションの為。
でも、今はそんな気はしなかった。唇が震えて、息が小刻みになって、目が熱い。
少年が目を細めながら、ゆっくりと振り向く。目を開けて見ると、腕で顔を覆って、荒い息を吐く少女。
そして肌蹴たブラウスから露わになった肌が見えた。
「何だよ…なんなんだよ…?」
「何が…よ…」
虫のような声。
少年の中で、あれやこれやと感情が祭のように葛藤する。
「お前は屋上で傘も差さないで雨ざらしになってるし、靴とかも脱ぎだすし、何も言わねーし、果てには倒れるし……その上何で手前が好きでもない奴の前で服脱ぐんだよっ。つか何で俺がお前のこと好きなの知ってるんだよ…っ!?」
女々しい男だ。泣きっ面になっている。
少女を抱き抱える腕に力が入って、少女の体がまた少し揺れた。
「じゃあ、順に…答える」
少女が腕をどかすと、虚ろな目が少年を映した。
「ひとつめ。雨ざらしに…なってたのは、雨が…好きだから。靴を脱い、だのも、雨が好きで、もっと…感じたかったから」
少年の似合わない真面目な顔を見て、続ける。
「ふたつめ。何も言わなかったの…は、単に…話すことが…無かった、から。あんたが…話しかけてくれば、答える…つもり、だった」
少年の顔が、何かを失くしたかのような苦い色に染まっていく。
少女は荒い息を抑えて、一呼吸置く。
今頃になって、ブラウスのボタンを外したままなのが少し恥ずかしい。今さらなので放っておくが。
「みっつ…め。倒れたのは、多分…体温低下による…体力、の…消、耗」
とは言っても、こうして少年と雑談するくらいの体力は残っているが。
間違いなく風邪は引けるだろう。まさか入院沙汰や、生命への危険性はないと思う。
さて、と。
「よっつめ……ーと、あといつつめ」
少女の腕が朧気に上がる。ふと一瞬止まって、またすぐに上がる。
そうして少女の青ざめた両手の指先は、再び少年の頬に優しく触れた。
「私も…あんたが、好き……だから」
少年の顔が、がくんと落ちた。
唇が重ねられる。
味など解らない。ただ、二人とも唇が寒さで縮んで、青ざめていた。
唇を離して泣き出しそうな目に少年を映す。鼻の頭が振れそうな近距離。
小刻みに震える指は少年の頬に触れたまま。
「馬鹿野郎……っ」
少女の冷えた体を、少年が抱き締める。
強く、潰してしまいそうな程に。
「何で……何でそんなに不器用で…自虐的っつーかっ……あーもう訳分からん!」
正直興奮している。男としては、このまま押し倒してしまいたい。立つところだってしっかり立ってる。
抱き締めて、口のすぐ隣には少女の耳。
でもそんなことより、今は…抱き締めてやりたい。
あいつが自分のこと好きだとか、そんなことは今はどうでもいい。あいつの不器用な行動と、冷えた体。
「俺…好きだ。お前のこと」
「…知ってる。だから下着見せても…」
「空気読め。本気だ」
「……うん」
返事とともに、少女の細い腕が伸びる。少年の体を抱き締める。
「わたし……ずっと…、訳わかんなかった。なにもかも」
「おう」
「今も…何にもよく解らなくて……ぜんぶ…中途半端に溶けたみたいな…かんじ…だった。せかいも…じぶんも、そらも……ぜんぶ」
少女の閉じた瞳から、冷たい雨に混じって、温かい涙が伝う。
「だから…雨が…好き、なの。みんなみんな……、流してくれる…きがして」
霧雨は未だ、二人の体を冷やしていく。
今も、少女の中では何かが流れているのだろうか。
「わたし………」
「もういい。もういいって」
何となくだったが、少年は理解した。
きっと、生きる目的も生まれた理由も、世界の存在する意味も、他の誰もが笑っている意味も、そんな裏で誰かが泣いている理由も、未来の映像も、過去の記憶も、空が毎日変わるのも、学校の宿題も勉強も、自分も、他人も、死ぬ事も、何もかもがぼーっとぼやけていたんだろう。
そんな中でぼーっと生きていただけなんだろう。
生きていることが分からないのなら死ねばいい。でも死ぬ事も解らない。彼女は心を置く場所が、自分の中に作られなかった。
見つけたのが、雨だった。
「とりあえず中に入ろう。ボタン留めれるか?」
少年は傘を拾って少女の上に掲げる。少女はボタンを留めようとするが、指先に力が入らず、ボタンを掴めない。
「あー無理すんな。早く中に入るぞ」
少年が傘を捨て、少女に背を向けてしゃがむ。
「俺が背負うから、ほら」
「うん…」
少女がふらふらと立ちあがって、倒れこむようにして少年の背に身を委ねる。
腕には力が入らず、だらりと下がっていた。
少年が一瞬躊躇って、少女の脚に手を回す。
「…っしょ」
ゆっくりと立ち上がり慎重に、しかし焦りを込めて小走りにドアをくぐる。
雨の下から解放され、鉄の階段を一段一段確かめながら降りていく。
足音と滴る水の音が、静かな屋内に響いた。


外では未だ霧雨が優しげに、儚げに降り続いていた。